お金, ロゴストロン, 二項対立, 仮想現実, 意識進化

家庭の味はなぜ飽きないのだろう?

たとえば、あなたが無類のイタリアン好きだとして。

今から、絶品のイタリアンを食べて下さい!と言われたらどう感じますか?

きっと、「やったー!」とか、「ラッキー♪」と思われるかも知れません。

…では、それが毎日ならどうでしょうか?


二項対立を生む「最高」の追求。

はこれから、毎日、毎食、絶品のピザやパスタ、ドリアなどが並ぶイメージです。味はとにかく絶品です。

もちろん、イタリアンにだって様々な種類がありますね。パスタ一つ取っても、沢山のレシピがありますから、自分なら毎日食べても飽きない…と思うかも知れません。

確かに、4〜5日くらいならイタリアン三昧も悪くないかも知れません。

では、半月ならどうでしょう?…それが、一ヶ月なら。…半年、一年と続くとしたら…。

「絶品」のイタリアンも、さすがに飽きてしまうと思います。

それが、一年も食べようものなら、イタリアンと聞くだけでトラウマになってしまうかも知れません。

「絶品料理」というものは、たまに食べるから良いのであって、さすがにそれが毎日続くと、飽きてしまうと思います。

「絶品のイタリアンが飽きるのなら、マズいイタリアンなら飽きないのか?」と思われるかも知れませんが、そういうことではありません。

それは二項対立といって、また別の問題なんですね。

「最適」で二項対立を超える。

飽きない食事を考えると、和食、それも各ご家庭で頂く家庭料理は、まず飽きないと思います。

色んな意味で、バランスが取れているんですよね。美味しすぎるワケでもなく、通常は、マズすぎるということもなく、汁物を1つ取っても、具材の取り合わせで、様々なバリエーションがあります。

ガツンとウマい…ではないかも知れないけれど、定番の味があって、安心して食べられますよね。

あと、外食には無い特徴として、家で頂く食事は、作る人の愛情を感じると思います。

そう言えば、子供の頃、親の仕事の都合で、何日も何日も、外食や店屋物が続いたことがあって、「今日は何食べたい?」と母に聞かれた時、「たまには、普通のご飯とお味噌汁に、焼き魚が食べたい」と母に伝えたら、母が泣き出したことがありました(笑)。

美味しい食事は、もちろんありがたいけれど、もっと普通のものが食べたいと思ったから、その時は母にそう伝えたのですが、相当ショックだったようです。

この経験は、僕に何かを教えてくれたように思います。

仮想現実の幸せから目覚める。

せそれは、「幸せの追求」です。

「幸せ」は目に見えません。目に見えないので、私たちは目に見える形で「富」を追求してしまいます。多くの場合、それはお金や財産ですね。

−−−−−

人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。

もっと大切な何か他のこと。それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。

−−−−−

Appleの故スティーブ・ジョブズが、亡くなる直前に残した言葉の一部です。

豊かな人生を歩もうとすることは、決して悪いことでは無いと思います。ただ、それもバランスです。富を追求し続ければ、幸せになれるというのは仮想現実であり、ジョブズが晩年後悔していたように、そこには何もありません。

冒頭で、絶品のイタリアンを毎日食べ続けるなら、いずれ飽きてしまうという喩えと同じように、自分の「幸せ」には、心地の良いバランスの取れた領域があるハズです。

 

幸せの定義を可視化してみよう!

あなたは、ご自身の「幸せ」が何であるか、定義を持っていますか?ご自身にとっての「幸せ」が何であるか、紙に書き出し、ぜひ可視化してみて下さい

私たちは、「幸せ」が何か特別なものだと思ってしまいます。

例えば、毎年、海外旅行へ行くことだとか、立派な家に住み、車を何台も所有し、何か、ドラマに出てくるような優雅な暮らしではないかと。

このタイトルに挙げたように、家庭の味は、飽きることが無い反面、毎日食事を頂くことに対する感謝や感動は薄いのかも知れません。

一方で、私たちは、日一日と、ある場所へ向かっています。それは「死」です。

「死」は誰にも避けることができません。

たとえ、どんな大富豪であっても、大企業の社長であっても、偉人や、大統領であったとしても。

「死」が自分の中にあることをハッキリと自覚したとき、私たちは今日、今この瞬間をただ生きられることが、どんなに幸せであるかが分かります。

何でもない、家庭の味を頂けることが、実は自分にとって一番幸せなことであり、大切な家族と過ごせるということは、かけがえのないものであったのだと、多くの人は死ぬ直前になって初めて悟ります。

それが分かると、際限の無い富の追求など、フェイクであり、全くの無意味であることが良く分かります。

もちろん、時には旅行へ出たり、素敵な芸術に触れたりなどの体験もまた必要でしょう。すべてを無くして良いということではなく、最適なバランスを持ってみてはどうかと思うのです。

どうせ死んでしまうのなら、何をやっても仕方がない!とか、死ぬまでにせいぜい楽しんでやろう!…という方もいらっしゃいますが、自分の命を意味のあるものにしたいと僕は願っています。

すると、ロゴストロンに何を入れて発信すれば良いか?という起点が見えてくると思いませんか?

・私の中に「死」があることを認めて、受け入れ、自覚すること。

・何もないと思う日常に、「幸せ」はあり、それは、自分の意識で取り出せるということ。

・最適な「幸せ」は願っても良いが、終わりのない富の追求には意味がないこと。

でしょうか。

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